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Journalvol.06

元副編集長が振り返る、

Jリーグ以前と

Admiralの時代

情報収集は雑誌と録画中継が頼り

人気はイングランドとドイツのチーム

1970年代の日本において、最新のサッカー情報に触れるのは至難の業だった。Jリーグが開幕する20年以上前の時代。インターネットもCS放送もない。毎月発売されるサッカー専門誌を隅から隅まで読み倒し、週に一度、世界のプロリーグの試合を録画放映する番組、「ダイヤモンドサッカー」を心待ちにする。それが当時のサッカー愛好家、特にサッカー少年たちの当たり前のルーティーンだった。
 
1954年に生まれ、のちにベースボール・マガジン社が発行する専門誌「サッカーマガジン」の副編集長として活躍することになる国吉好弘氏は、そのころのことを懐かしそうに振り返る。

「サッカー雑誌に掲載される情報は、今に比べてかなり速報性が低いものでしたね。ダイヤモンドサッカーはイングランドとドイツのリーグ戦を放映することが多かったから、必然的にその2か国の情報が入りやすかった。当時のサッカー少年が履いていたスパイクは、国内メーカーのものが主流だったと思います」

国吉氏が見た、70年代のAdmiral

漂っていたのは、英国の伝統美

「70年代に入ると、メーカーが自社ユニフォームにロゴを入れ、ブランド性を主張し始めました。Admiralもリーズ・ユナイテッドやマンチェスター・ユナイテッドと契約して、ロゴ入りのユニフォームを提供していましたね」
 
日本では無名だったAdmiralだったが、本国での躍進は目を見張るものがあった。70年代半ばには、イングランド代表のサプライヤーとなり、その存在を世界に向けて発信することになる。国吉氏は、イングランドのクラブや代表チームが着用したAdmiralのユニフォームから「質実剛健なイングランドらしくない、お洒落なイメージ」を感じ取ったという。

アスリートが求めるデザインとは何なのか。デザインチームは常にアンテナを張り巡らせ、ニーズとトレンドを収集している。そしてそれをアイテムに反映させる。頻繁にスポーツショップを巡ってショップスタッフと対話し、最新のウェア情報を確認する。これまで未経験だったテニスを始め、実際にプレイすることで、ウェアに必要な機能を模索するメンバーもいる。すべてはアスリートのために。あくなき挑戦心と貪欲さは、Admiralのウェアのコンセプトを着実に進化させている。

「あのユニフォームは印象的でした。Admiralのモデルはユニオンジャックカラーの斬新なラインが入っていてカッコよかった。学生時代に自分たちのチームのユニフォームを作ったとき、あのAdmiralのデザインを真似てオーダーしたのを覚えています」

ついに日本にやってきたAdmiral

サッカーマガジンではタイアップ記事も掲載

イングランド代表がAdmiralを着用してスペインでのワールドカップを戦った翌年の1983年、国吉氏はベースボール・マガジン社に入社。サッカーマガジン編集部で活躍を始める。
 
「日本でAdmiralが流通し始めてすぐのころからサッカーマガジンに広告を掲載しましたし、ボリュームのあるタイアップ記事を作ったこともあります」
 
まだプロリーグの誕生前。依然として一般人が得られるサッカーの情報は少ない時代ではあったが、高校サッカーの名門チームが着用したり、イングランド代表がワールドカップに出場したりしたこともあって、Admiralというブランドはサッカー少年たちの目に留まるようになっていった。

改めて歴史を刻み始めたAdmiralへの期待

「強さの象徴」としての存在感を高める挑戦

1993年にJリーグが開幕。1998年には日本代表が初めてのワールドカップ出場を決める。国吉氏はサッカー記者として、また、サッカーマガジン副編集長として、日本のサッカー界の激動の時代を最前線で見守ってきた。その視線の先では、さまざまなブランドのユニフォームがJの舞台を彩ってきたが、これまでそこにAdmiralの姿はなかった。しかし2022年、満を持して日本のトップリーグにAdmiralが登場。歴史あるブランドではあるが、若いファンにはまだ認知されていないところもある。その印象やステータスが確固としたものになっていくためには、何が必要なのか。

国吉氏は、「強いチーム、優秀な選手が身に纏ってこそ、そのブランドが認知されていくもの」だと語る。

かつてイングランドの名門や代表チームが身に着けて実績を残し、Admiralの存在感は形作られていった。「Admiralを着ているチームは強くてカッコイイ」。日本のサッカーファンに改めて印象付けるためにも、Admiralを纏う選手たちの奮闘に期待したい。

国吉好弘(くによし・よしひろ)

東京都江戸川区出身。1983年より、当時は月刊誌だった『サッカーマガジン』編集部に籍を置き、ワールドカップを現地で取材するなど記者として活躍する。「サッカーマガジン」の副編集長、「ワールドサッカーマガジン」の編集長を歴任し、2013年退社。現在もフリーのサッカージャーナリストとして活動を続けている。

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